500ペソ札に描かれた「つながり眉毛の女」の正体

 

 

誰も教えてくれないMexicoお金の話1話 メキシコ通貨の基本情報で紹介したメキシコの金種の写真の500ペソ札は古いものになっていますが、

 

 

 

現在の新しい500ペソ札はこちらです。

 

 

 

 

 

 

 

「この眉毛が繋がっている独特な風格のある女性はだれ?」

「お札に載るほど有名人なの?!」

 

 

実は、この女性はメキシコを代表する有名な画家、

眉毛が繋がって(!)口髭のあるFrida Kahloフリーダ・カーロ(左)と

 

 

そして、裏(表?)には、そのDiego Riveraディエゴ・リベラ(右)

 

彼も同じくメキシコを代表する有名な画家で、

実はこの二人は夫婦なのです。

 

 

 

 

特にフリーダ・カーロはメキシコ国内だけにはとどまらず、

世界的に有名で、一度は目にしたことがある方も多いかと思います。

 

 

 

 

メキシコ国内外でフリーダカーロのグッズは販売され、

ハロウィンや死者の日(メキシコのお盆のお祭りバージョンのようなも)

でもフリーダの真似をするひとがたくさんいるくらいです。

 

 

 

この人物たちをお札の表裏で夫婦を描くなんて

メキシコもなかなか粋だなと思います。

 

 

日本にもフリーダ・カロのファンがたくさんいると思いますので、

この500ペソ札が手に入ったら自慢(?)してください♪

 

 

▶フリーダ・カーロは壮絶な人生を送った強く美しいメキシコ女

 

 

 

➡Wikipediaフリーダ・カーロ

➡Wikipediaディエゴ・リベラ

ちなみにフルネームはDiego María de la Concepción Juan Nepomuceno Estanislao de la Rivera y Barrientos Acosta y Rodríguezだそうです。長いっ!!

 

 

フリーダ・カーロは伝記映画にもなって日本でも公開されています。

 

➡映画『フリーダ』公式ホームページ

 

 

 

ふたりのドラマを超える波乱万丈な人生

このメキシコを代表する現代画家と壁画家の夫婦です。

(21歳差だそうです!そして2度夫婦になりました)

 

 

 

 

 

Wikipediaより抜粋と一部追記

フリーダは1907年7月6日メキシコシティの郊外で3女として生まれる。

1904年に両親が建てたフリーダの生家である「青い家」は現在はフリーダ・カーロ記念館として公開されている

ドイツ、ハンガリー系ユダヤ人であった職業写真家の父親は1891年にメキシコへ渡航し、1921年のメキシコ独立百年祭の記念に出版された写真目録の製作に携わり、メキシコで最初の公式写真家としてその地位を確立している。

しかし、メキシコ革命の勃発により安定した生活は終わりを告げ、フリーダはこの頃の状況について後年「私の家ではとても困難なもとで暮らしを立てた」と回顧している

出産の影響で母親が衰弱していたため、幼年期は乳母によって育てられ、母親の愛情とは疎遠であったことが日記や対談などから伺える。

6歳になった頃に急性灰白髄炎(ポリオ)にかかり、およそ9か月にわたって寝たきりの生活を送った。この影響で右腿から踝にかけて成長が止まって痩せ細り、これを隠すためにズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。父親は脚がもとに戻るようにあらゆるスポーツをフリーダに習わせたが、脚が元に戻ることはなかった。

リハビリを兼ねて父親はフリーダを良くハイキングに連れて行っており、そこで自身の趣味であった水彩画や職業としていたカメラの手ほどきをフリーダにしていた。こうした経験は、画家となった後年のフリーダに大きな影響を与えることとなった。1951年に制作された『父の肖像』の下縁に書かれた献辞には「私は父ギリェルモ・カーロを描くものなり。父はハンガリー・ドイツ系の出にして、芸術家であり、職業写真家である。こころひろく、知的で、そのひととなり貴く、勇敢にして、60年の長きにわたっててんかんに悩めるも、休みなく働き、ヒットラーにはむかった。敬愛する娘フリーダ・カーロ」とあり、若き日の父親への感謝の念を贈っている。

 

恐ろしい事故と苦悩、夫との出会い

ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ(1932年撮影)


1925年9月17日、通学に使用していたバスが路面電車と衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生した。フリーダも生死の境をさまよう重傷で、フリーダは血まみれの半裸状態で、鉄棒に突き刺された状態で発見され、背骨、肋骨、骨盤、鎖骨は砕け、右足はつぶれ、鉄棒は左臀部から膣を貫通して腹部に深い傷を残し生死の境を彷徨う。3か月の間ベッドの上での生活を余儀なくされ、数ヶ月もギブスやコルセットや牽引で固定され、そしてその後も事故の後遺症で背中や右足の痛みに絶えず悩まされ続ける。その後も事故の後遺症で背中や右足の痛みにたびたび悩まされるようになった。痛みと病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになったという。

 

通常の生活が送れる程度に回復した1928年、フリーダは知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党する。

そこで画家ディエゴ・リベラ(のちの夫)と出会った。リベラの絵に感嘆したフリーダは闘病時代に描いた自分の作品を見せ、リベラに意見を求めた。リベラは後にこの時の出来事を「カンバスにはものすごい表現力が示されていた」と語っており、フリーダの感性に大きな感銘を受けた。

これを契機に二人の仲は急速に接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚した。年の差やリベラの外見上の印象から、フリーダの両親からはあまり祝福されなかった。

二人は最初メキシコシティ中心部にあるアパートを借りて住んでいたが、リベラにコルテス宮殿の壁画作成の仕事が入ったため、同年にクエルナバカ市へと移っている。

翌年11月、リベラに今度はカリフォルニア美術学校(現サンフランシスコ芸術大学)から壁画作成の依頼があり、サンフランシスコへと居を移した。その後も仕事の都合でニューヨーク、デトロイトなどを転々とした。

リベラのこうした無節操な仕事の選び方はメキシコ共産党の反感を買い、1929年に党員資格を剥奪された。この時、フリーダもあわせて離党手続きを行っている。

1930年にフリーダは妊娠したが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産となった。1932年、1934年にも流産している。

これら出来事は彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えることとなった。 

絶望と成功

1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったことにショックを受けたフリーダは、サン・アンヘルの家を出てメキシコシティ中心街に居を移した。この年に発表した『ちょっとした刺し傷』はフリーダの心理状況をつぶさに反映している。

同年の終わりごろにはサン・アンヘルの家に戻ったが、フリーダはリベラへのあてつけのようにアメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持った。

1936年7月にスペインで内戦が勃発するとフリーダは共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込むようになった。

 

 

1939年、映画俳優のエドワード・G・ロビンソンがフリーダの絵を大量に購入したことを契機としてアメリカへ旅立つ機会が増えていった。フリーダの成功はアメリカでも驚きを持って報道され、ニューヨーク現代美術館の館長アンソン・グッドイヤー英語版、ジャーナリストクレア・ブース・ルース英語版、写真家ニコライ・ムライのニコラス・ムライなど多方面の著名人から絵の注文が舞い込むようになった。

フリーダはアンドレ・ブルトンが企画した「メキシコ展」を支援するため、1939年にパリへと旅立った。ここで複数のシュルレアリスト達と親交を結びたいと考えたことがその一因となっていたが、考え方の違いによりパリの芸術家たちと深い親交を持つことはなかった。加えて戦争の影響によって展覧会は経済的成功に至らず、その後に予定していたロンドンでの展覧会は中止になった。 しかしながらフリーダの作品は好意的に評価され、ルーブル美術館は展示された『ザ・フレーム』を買い上げている。

フリーダの成功と精力的な活動によって次第に夫婦間の熱は冷めていき、1939年11月6日リベラとの離婚が成立、フリーダは生家である「青い家」へと戻った。

孤独を忘れようとフリーダは作品制作に没頭し、経済的にも自立しようと努めた。 1940年9月、再び脊椎の痛みに悩まされ始め、加えて右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、作品制作が続けられなくなり、治療のためサンフランシスコへと向かった。

医師の指導のもと治療を続け、健康状態が安定した頃、フリーダはリベラへ再婚の提案を行った。経済的に自立させること、性的関係は結ばないことなどフリーダが提示したいくつかの条件を飲み、リベラは提案に合意し、1940年12月8日、サンフランシスコで二人は2度目の結婚をした。 サン・アンヘルはアトリエとして使用することとなり、二人は「青い家」で生活を行うこととなった。

1940年代の終わりごろになるとフリーダの健康状態はさらに悪化し、入退院を繰り返すようになった。

 

1950年には右足の血液の循環が不足して指先が壊死したため、切断手術を行っている。 作品制作が再開できるようになるのは1950年11月ごろに入ってからで、ベッドの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作できるよう整備した。

 

1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった緻密なテクニックを駆使した作品を作り上げる事も難しくなった。

 

1953年8月には右足の痛みが鎮痛剤では耐えられないほどになったため、主治医は膝までの切断を取り決めた。以後フリーダは義足を使用することにより歩くことができるようになったが、リベラが「彼女は生きる気力を失った」と語っているように、ふさぎこむ事が多くなった。

 

1954年2月の日記にフリーダは次のように綴っている。「6か月前、脚を切断され、一世紀にもおよぶと感じられるほどの長く、耐えがたい苦痛に見舞われて、私は時々正気を失った。いまだに自殺したくなる時がある。ディエゴだけがそんな私を思いとどまらせてくれる。なぜなら、私がいなくなれば、彼がさびしがるだろうと思うから。」

しかし、同年の7月13日、フリーダは肺炎を併発して死去した。日記に自殺のことがたびたび出ていることや、前夜にリベラへ8月21日の銀婚式の贈り物を手渡していたことなどから自殺ではないかという憶測も流れた。

 

死後、フリーダの棺は国立芸術宮殿のホールに安置され、翌日までに600人を越える人々が別れのあいさつに訪れた。火葬されたのち、フリーダの遺灰は先征服期に作られた壺に入れられて「青い家」に安置されている。

 

1958年7月12日、「青い家」はフリーダの残した作品や民芸品、奉納画や絵のコレクション、使用した絵画道具や手紙、日記などを展示する博物館、「フリーダ・カーロ記念館」として開館された。

 

作品と評価

フリーダ・カーロは生涯にわたって200点を越える作品を世に残しており、その大半が自画像であった。

夫との関係、事故後の自身の健康状態、子供が産めない身体であることなど、作品はその時フリーダに起こった出来事を象徴的な意味を込めて描くことが多く、フリーダの心情を表現している。

こうした表現は女性の身体や性に対するタブーを打ち砕いたとして評価されており、夫であり、画家でもあったディエゴ・リベラは「彼女は女性特有の、あるいは女性に普遍的なテーマを、仮借のない率直さと冷徹な厳しさをもって描いた、美術史上最初の女性である」と評している

 

 

 

 

▶若き日のフリーダと代表作品

また二人が過ごした『青い家』が博物館として公開されています。

終日人気で長蛇の列ができていますが、

メキシコシティにお立ち寄りの方は是非行かれてみてください。

 

予約無しでも入れましたが、予約をしたほうが並ばずに入れます。

 

 

この「青い家」のキッチンがとっても素敵なんです♪

 

素敵なMuseo de Frida KahloのWebサイト

2017年(フリーダ・カーロ博物館Webサイトより抜粋)

HORARIOS(開館時間)
 

Martes(月曜): 10:00 - 17:30 h. 
Miércoles(水曜): 11:00 - 17:30 h.
Jueves a domingo(木ー日曜): 10:00 - 17:30 h.

 

CERRADO LOS DÍAS(閉園日)

 

01 de enero(1月)
21 de marzo(3月)
01 de mayo(5月)
16 de septiembre(9月)
21 de noviembre(11月)
25 de diciembre(12月)